ひだまりの居場所

精神障害者をはじめ、生活困窮者の心に寄り添うブログです。

テロと宗教


イスラム教の人々に対する得体の知れない恐怖感は、彼らがジハードと呼んでいる聖戦が、一般の人々から見ると、命をかけた無謀で過激な武力行使に見えるからですよね。


前に一度、こちらに住んでいる日本人の男性と、この話題で口論になってしまったことがあります。彼は、新疆ウイグル自治区にもいっしょに旅行に行った仲間なのですが、「ああいう顔立ちの連中は、何をしでかすか分からないから、怖い。近づかないほうがいい」と平然と言ってのけました。「それは、ニュースで見るイスラム過激派の人たちのテロ行為の中で、ああいう顔立ちの人たちが中心になっているから、そういうイメージになっているにすぎないのでは?」と私が言うと、「イスラム教は排他的だから言ってるんだよ」と言い返されました。私は心の中で、排他的なのはそういう考えを持っているアンタだろ、と思ったのですが、「実際に新疆に旅行に行って、あれだけいろいろなモスクを見学させてもらって、教義や生活の話も聞かせてもらったのに、それでも排他的だと思うんですか?」と私が問うと、「実際にテロは起きているだろう? 罪のない人を巻き込んで人びとを恐怖に陥れる宗教は、間違っているし、彼らを恐れるのは当然の心理だ」と熱く語られてしまい、ブチッときてしまいました。


あまりに程度が低いというか、勉強もせずによく言いきれるものだと、あきれてあいた口がふさがりませんでした。それと同時に、この世の平和とあの世の平安を純真に願い、日々祈りを捧げている人々が、哀れに感じられてなりませんでした。


中国にはキリスト教徒も大勢います。それは清の時代に、宣教師たちがもたらす暦や天文学、芸術、薬などの技術と知識に端を発して許された布教活動で、キリスト教そのものを受け入れたわけでは決してありませんでした。それが証拠に、一度は許された布教も、一旦は排除され、再びキリスト教キリスト教として広められるに至った背景には、国家間の思惑が存在していたからです。


イスラム教もしかりでしょう。利権が絡むと宗教も許す。しかし、党の力を脅かすものにまで成長されては都合が悪いから、取り締まりを強化するわけですね。


いつもババを引くのは、純粋に神を信じる者だけです。ただ祈りたいだけなのに、それがすべての妨げとなって、生きていくのを難しくするなんて、あまりにすさんだ世の中です。


さて、日本人は、みんな心に「拝む」という基本動作が染み付いていて、いただきますの前に手を合わせたり、●●だけでありがたい、なんていう言い回しを使ったりして、宗教という概念は持っていなくても、きもちを持っている珍しい国民だと思います。だから、取り立てて特別な信仰を持っていなくても、ちゃんと心によりどころがあって、お坊さんにお経を詠んでもらって線香を上げれば、死んでも怖くないと思ったり、ここ一番という大勝負の時に「ああ、神様、力を貸してください」と手を合わせたりするんできるんですよね。



だからこそ、ひとつの神を信じる人たちに対する恐怖心が拭い去れないのかもしれません。迷いのない強い行いに対して、「なんだ、あの自信は…」と怖くなる。そしてそれが、アジア系の人々の顔ではなく、彫りの深い肌の色が違う人たちによるものだったりすると、余計に恐怖を感じる…。ちがうかな?


宗教とテロをぐちゃぐちゃに考えている人が、あまり中国の事情を語ってほしくなくて、あのおっさんとは口論になってしまったけれど、多くの日本人がきっとあのおっさんと同じような目で見ているのだろうと思います。


中国はとびきり評判の悪い国に成り下がってしまったけれど、ここへ来て、中華人民共和国の国民によるイスラム教徒のテロ事件が起き、わけがわからなくなってしまった人がきっとたくさんいると思います。テロには屈しないというアメリカの姿勢と、イスラム教徒を取り締まる中国の姿勢は、全く別物であることを、みなさんどうか認識してください。


※誤解のないようにしたいのですが、これはテロ行為を擁護しているわけではなく、ウイグル族の人たちがなぜここまで追い詰められていったかという過程を見て欲しいという文章であることを、補足いたします。