ひだまりの居場所

精神障害者をはじめ、生活困窮者の心に寄り添うブログです。

正義って何? 好かれるって何?

「けんかしても、自分から謝ってはいけません」こんな教育を受けて育った子供は、本当に謝らない子に育ちます。でもそういう教育をした当の本人である親に叱られると、子供の心に葛藤が生まれます。「ここでも謝らないほうがいいのだろうか?」と思うのです。親の言うことをよく聞く素直な子なのに、親に叱られると猛烈に反発する。私はそういう子供でした。私が中学受験をするとき、願書に親から見た子供の長所と短所を記入する欄がありました。父が悩みに悩んで、「素直だが頑固である、というのは矛盾しているかな?」と私に聞いてきたのを、今でもよく覚えています。一見矛盾しているようですが、そのものズバリの性格だったのです。


中学に入り、私は友達から仲間はずれにされた時期がありました。もともと一匹狼でひとりぼっちでも平気な子だったことも理由のひとつですが、この「素直で頑固」な性格が災いしたのです。「先生には従順、仲間に対しては頑固」というレッテルが貼られてしまったのですね。


私は中学時代という多感な時期に、「人から嫌われることへの恐怖」を嫌というほど味わい、それを恥だと思うようになり、以後、みんなから好かれたいと必死になりました。言いたいことがあっても口を閉ざし、反対意見を持っていても妥協し同調し、楽しくなくても楽しそうに笑い、高校に上がる頃には、友達の輪の中に入れるようになりました。でも、いつも苦しかった。本来の自分がどこにあるのか、すっかり見失ってしまったのです。


大学生になり、わずらわしい親の元を離れ、一人暮らしを始めました。カレシもできて、毎日自由に遊びまわっていました。女の園だった中学高校時代とは違って、グループの中に男性がいると、風通しがよくなるという快感も味わい、男女の隔てなく、友達はいっぱいいました。しかし、大学3年の時に、大失恋をしました。本当に本当に大好きだったカレから心変わりを打ち明けられ、「もっとやさしい子だと思っていたのに」と言われたのです。中学時代以来の大ショックを受けました。人の甘えを許さず、頑固一徹、私が一番隠したかった部分を見抜かれてしまったのです。


それからの私は、それまで以上に、自分を取り繕うようになりました。もう誰からも嫌われたくないという強い思いが、極端に歪曲し、私を嫌う人のほうがおかしいのだ、と思わぬ方向へ進んでいきました。私に対して敵意を示す人や、仲良くなろうとしない人、相性の悪い人、私と反対意見を言う人のことを、仲の良い友達にこぼし、悪口を言い、隙あらば仕返ししてやろう、と思うようになったのです。要するに、味方を作って、嫌なヤツを追い詰めてやろうという、「大人のいじめ」です。でも、私はいつも正義感たっぷりで、決して自分は悪くない、と思って、気が済むまで相手を追い詰めることをしていました。逆に言えば、相手をおとしめ、跪かせることで、自分を正当化しようとしていたわけです。


しかし、それをやったあとは、とてつもない自己嫌悪に陥るのが常でした。「まあ、そんなに自分を追い込まなくてもいいのに」と周囲が心配するほど、落ち込むのです。「そんなに落ち込むなら、最初からしなきゃいいのに」と言った友もありました。まさに正論です。いつも落ち込むのだから、そんなことしなきゃいいのに、正義感が強すぎて、やらずにいられないのです。いつも自分が正しいという結論を得ないと、落ち着かない人間になってしまったのです。


さて、「自分の核」が一体どこにあるのか、この数ヶ月間、考え続けてきましたが、少し核に近づけたような気がしています。私が今まで正義だと思ってきたものは、実は、「けんかしても自分から謝ってはいけません」という幼児の頃の刷り込みが原型だったのです。そんなものは正義でもなんでもない、ただただ親の言いつけ通りに生きようとしていただけだったのですね。この歳になるまで、無意識にそうしてきたのだから、幼児教育って大事なんだなぁと心から思います。


…で、ここまで分かったのは良いのですが、これから私はどう生きるべきかの方が重要です。正直、どうしたらいいのか、わかりません。主治医は、「自分の核がない人なんて、いません。みんなまん丸な核を持っているんですよ。それを探していきましょう」と言います。私から、無駄な正義感を取り払ったら、まん丸な核が残るのだろうか??? んなわけないよなぁ〜。