ひだまりの居場所

精神障害者をはじめ、生活困窮者の心に寄り添うブログです。

アダルトチルドレン4

さて、今日は「信じる」とはどういうことか、が宿題。すごく難しいテーマです。ぜんぜん分からない。


私は人に流されやすいタイプの人間です。相手の価値観にそぐわないと、すぐに調子を合わせてみたり、不快に感じると逃げてしまうので、まず自分というものを信じておらず、したがって人を信じるということがどういうことなのかも、全く分かりません。


信じるというのは、疑わないということ? ん〜、なんかピントこないですね。疑っていても、その思いを打ち消すこと? 違うよね? 


たとえば…、例は悪いけど、自分がとても愛している人が、殺人容疑で指名手配され、自分のところに逃げ込んできたとしましょう。その人の顔を見た瞬間、「殺ってるのか?」「殺ってないのか?」ということよりも先に、その人の言葉に従うというのが、信じるということ? 「俺、殺ってないんだよ! ほんとうだよ! 信じてくれ!」と言われたら、信じるということ? それとも「俺、殺っちゃった! やばい! いっしょに逃げてくれ!」と言われたら、彼を信じて一緒に逃げること? 「自首して罪を償って、また一から出直そう! 私、待ってるから」と彼を促すのが、信じるということ?


ほかにもいろんなシチュエーションがありますよね。「キミのことが好きだ。愛してる!」と熱烈な告白を受けたとき、「知り合って1ヶ月しか経ってないのに、愛してるって言われても、信じていいのかな?」とか、スポーツの予選で勝ち抜き、1位になって本戦出場決定! そのとき惜しくも2位で出場できなくなったライバルが、「私の分までがんばって!」と言ったら、その言葉を信じられるかどうか? いつもいつも不機嫌で部下を叱ってばかりの上司がいたとして、こてんぱになるまで叱られたあと、同僚が「きっとキミに期待しているんだよ」と慰めてくれたら、それを信じていいのかどうか?


善悪がからむことについては、信じることよりも、「自分が善いと思ったほうを選ぶ」?
人の思いを信じるかどうかは、「自分が相手の立場だったらどうだろう?」とシミュレートする?
人の励ましや慰めの言葉に対しては、「信じる者は救われる」?


指名手配されている彼の言葉が「殺ってない!」なら、私は信じようと思います。「殺っちゃった! 逃げよう!」だったら、自首を勧めます。愛の告白は、とりあえず嬉しいから信じようとするかな? ライバルの言葉は、感謝の気持ちで受け止めて、抱き合いたいなぁ。上司のお叱りや同僚の慰めは、信じなきゃやってられない、といった心境です。


こうやって文章にまとめてみると、自分が本当は何を求めていたのか、というのが少しずつはっきりしてくるんですね。でも、私は咄嗟に回線がつながらないのです。いつも少しタイムラグがある。なぜだろう? そのタイムラグの間に、私は何を考えているのだろう? 


それはもしかすると、自分自身をよく見せたいという思いなのかもしれません。あるいは、相手から嫌われたくないという思いなのかもしれません。


心療内科の医師が言うところの、「私の周りにかぶっている何層もの玉ねぎの皮」の一部が、きっとこれなのでしょう。いつも立派でなければならない、いつも優秀でなければならない、いつも正しくなければならない、でも、この人から嫌われたくない。じゃあ、どう対応すればいいのか? ということを常に考えているから、生きるのが辛くなるんですね。


原因は分かったけれど、どうしたらその思いを捨て、タイムラグをなくすことができるのか? 信じるというのは、自分をさらけ出すことなのかなぁ。まだよく分かりません。とりあえずやってみるか? やってるうちに分かることもあるでしょう。結構前向き! えらい! えらい!