ひだまりの居場所

精神障害者をはじめ、生活困窮者の心に寄り添うブログです。

アダルトチルドレン3

尖閣問題ばかりが気になって、医師からの宿題をおろそかにしていました。今日は、「受け入れる」ということについて、考えてみたいと思います。


「お母さんの考え方に反発をしていても、ずっと平行線をたどるだけなのはお分かりでしょう。だからこそ、yueyaさんは中国に逃げてきたのですから、それもストレスを遠ざける一つの方法ではあります。しかし、それによって、自分の思考の習慣が変えられず、同じところをスパイラルしている状態では、生きづらさはこの先も変わりません。日本に帰って、ほっと落ち着ける場所がご実家であれば、どんなにいいだろうとお考えのはずです。でも今の状態で帰っても、またお母さんと口論になり、嫌な思いをして中国に逃げ戻ってくるのが目に見えていますね。だから、あなたはなかなか日本に帰ろうとしない。まず、自分自身が変わって、そういうお母さんを理解し受け入れられるようにならなければなりません。また、お母さんとの関係だけでなく、どこにいてもあなたを苦しめている生きづらさから開放されるためにも、必ず一度は乗り越えなければならない問題なのです」


さて、ここでのキーワードは、「理解し」「受け入れる」という言葉です。理解するというのは、頭でできることなので、比較的簡単です。私は昨日の日記に、姑に対する今の思いを書き連ねました。姑の思いを想像することで理解にこぎつけ、「ごめんなさい、許してください、ありがとう、愛しています」と本心から締めくくることができました。でも、それと同じことが、実の母に対して出来ないのはなぜなのだろう、と今日、真剣に考えてみました。


私が母と似ている、ということが理由の一つに挙げられます。私は自分のことが好きではないので、母のことも嫌いなのです。私が子供を持たなかったのは、とても育てる自信がなかったから。私と同じような人間が育ってしまうことへの、巨大な恐怖心があります。かわいそうな自分、かわいそうな子供、そういう思いと言えば良いでしょうか。だから母に対しても、「どうして私を生んだの?」と恨みたい気持ちが強いのです。


でも、母もまたきっとアダルトチルドレンと呼ばれる人間の一人なのだと気づき、なんとなく理解はできるようになりました。「お母さんの幸せを私に押し付けないで!」と訴えたことを根に持っている母。典型的なアダルトチルドレン! しかも、全く自覚症状無し! 


そういえば、社会人になって久しいある日、弟の嫁さんと母と三人で話をしているときに、「お姉さん、頭が良い人で驚きました。いい学校も出てるんでしょう?」とお嫁さんが言いました。「いえいえ、ぜんぜん、まったく! 五流大学を温情で卒業させてもらった口だから」と私は本当のことを言いました。すると母が、「私がねぇ、仕事を持っていたものだから、あまりこの子を構ってやれなくて、勉強しろとかうるさく言ってやれなかったものだから、この有様!」と言い放ったのです! 嘘コケ! 二時間でも三時間でも正座で叱り付け、私がどんなに泣いて反省しようが、緊張の限界を超えてぐったりしていようが、まったくお構いなしに、勉強を強要した張本人が、「うるさく言ってやれなかった」とは、本当に耳を疑いました。しかも、かなり本心でそう言っているのです。一見すると、不出来な母で申し訳ないと言っているように聞こえますが、実は、謙遜でも何でもなく、本当にうるさく言った自覚がないのです! これぞ、アダルトチルドレンです。


こうやって過去の記憶をたどっていくうちに、あのとき私が何と言えば良かったのか、そのことを今日は考えてみました。「お母さんの幸せを私に押し付けないで!」と言ったことで母は傷つきました。じゃあ、「お母さんの望む幸せが、私の幸せだよ」と言えばよかったのか? それは絶対に言えない。口が避けても言えません。だったら、私がお母さんより一回り大きくなって、「お母さんは私が夢を実現することがうれしくないの? 楽しみじゃないの?」と言えばよかったのか? 成績が悪くてガンガン叱られているときに、ただうなだれているだけでなく、「お母さん、ありがとう!」と言えばよかったのか?


受け入れるというのは、なかなかもって、難しいことです。受け入れられるだけの器がなければ、余裕のある「救いの言葉」というのは口から出てはきません。まして、相手のことが嫌いだったりすると、相手のことが鼻について、嫌味なことしか言えなかったり、無視してしまったり、適当にあしらってしまったりして、受け入れるなんてところまで到達できません。自分のほうが相手より明らかに勝っているというシチュエーションであっても、なんだか上から目線になってしまって、それも本意ではありません。「受け入れる」ということは、なんて難しいことなんでしょう。


明日は、もし余裕があれば、「信じる」ということも考えてみたいと思っています。人を信じるって、よくわからないのです。