ひだまりの居場所

精神障害者をはじめ、生活困窮者の心に寄り添うブログです。

アダルトチルドレン2

私は、母のもとを離れて、ここ中国で生活していますが、母の呪縛からなかなか逃れられずにいます。嫌だ嫌だと思っていても、子供の頃から恐怖心と共に刷り込まれた価値観というものは、そう易々とは変えられるものではありません。洗脳とマインドコントロールの定義は違うということを、以前教えてもらったことがあるのですが、私の場合はその両方が混在しているような気がしています。母からの呪縛に気づいてはいるものの、深い深いところで染み付いている物の考え方が邪魔をして、無意識の内に自分を萎縮させてしまうのです。


私の知り合いのスピリチュアルカウンセラーの方が、「yueyaさんは、もうお母様のいない中国で、自分で稼ぎ、自分で好きなものを食べ、好きに生きていける自由の身なんです。そして、その自由に気づいているはずです。だから、その自由を守っていくための方法を考えていけば、いいのだと思いますよ」とおっしゃってくださいました。彼女の助言は、とても心にやさしく届くニュアンスにあふれているので、言葉の上っ面だけを捉えることなく、心の耳で受け止めると、その意味が解せることが多いのですが、この言葉もそうでした。確かに私は、もう自由なのです。だけど、自由ってなんなんだろう。私はこれまで、母の愛情を感じるために、がんばり続けてきただけで、自分を解放するような自由がなんなのか、ということが全くわからないのです。


私が離婚した原因について、振り返ってみました。最大の原因は、姑との不仲でした。私は姑が怖くて怖くて、でも彼女のやり方に従えなくて、やむなく離婚を決断しました。夫婦仲は良好だったのに…、私は夫をとても愛していたのに…、姑とうまくいかないことの方が、その何倍も勝ってしまったのです。


私はかわいくない嫁だったと思います。姑にとっては、何を考えているのかわからないような恐ろしい女だったでしょう。だって、自分自身でさえどうしたいのか、よくわかっていなかったのですから。


姑はよく私たち夫婦を家に招いて、食事を取らせてくれました。みんなで集まって何かするのが好きな人でしたから、あまり足が遠のくと、私の職場にまでやってきて、「たまには顔を出しなさい」と忠告するような人でした。当時私は、それがわずらわしくて仕方がありませんでした。喜怒哀楽を隠さないお嬢様タイプの姑でしたので、どこか自分の母の裏表の顔と重ね合わせてしまって、「姑に飲み込まれる!」と常に緊張していたのです。食事に招いてくれたり、プレゼントをくれたりする姑に、いつも過剰に喜びを表現しながら、心の中では違うことを考えていたのですから、姑も不安だっただろうと思います。


以前、「世界ウルルン滞在記」で見たのですが、スペインでフラメンコに挑戦した中武佳奈子ちゃんが「がんばれと言われると、その期待に応えようとして、とてもプレッシャーになる」と言いました。ホームステイした家の家族みんなが応援してくれていたからです。そのとき、その家の娘でフラメンコダンサーの女性が、「私はプレッシャーに感じるのではなく、みんなが見守ってくれている、と受け止めるのよ」というようなことを言っていたのを思い出しました。


私は、母からいつも交換条件を突きつけられるような形でしか愛情を受けられなかったので、いつもがんばって結果を出さないといけないような、常に行動で示し続けなければいけないという強迫観念を持っています。だから、中武佳奈子ちゃんの「プレッシャー」という言葉が、とてもよく理解できました。しかし、スペインのそのご家庭には本当に愛情にあふれた家族がいて、応援することの真意を「見守ってくれている」と受け止められる心が育っていることに気づかされました。私が本当に求めていたものは、それだったのだ、とわかったのです。


姑は、食事やプレゼントという形で私に好意を示し続けてくれていたのでしょう。仲良くなりたいという意思表示だったのだと、今になって思います。やかましく生活の世話を焼くのも、職場まで乗り込んできて説教するのも、すべて歩み寄りの行動だったのですね。


でも、ここまでわかっても、私はそういう人に接したときに、それにどう応えていけばいいのかが、わからないのです。スピリチュアルカウンセラーの彼女は、私に「心のクリーニング」の言葉を教えてくれました。「ごめんなさい、許してください、ありがとう、愛しています」。この四つの言葉をいつもいつも口ずさむように、と彼女は言いました。熱いものがこみあげました。


もう生涯伝えられることはないけれど、姑に伝えたい言葉です。
「ごめんなさい、許してください、ありがとう、愛しています」。