ひだまりの居場所

精神障害者をはじめ、生活困窮者の心に寄り添うブログです。

アダルトチルドレン

私が最近よく目にする言葉に「アダルトチルドレン」という言葉があります。言葉自体は以前から知っていましたが、正確な意味を知ることはこれまでありませんでした。


私はどうやらこの「アダルトチルドレン」、…らしい!


心療内科の医師に言われて、はたと思い当たりました。
うつ病は繰り返す病気です。再発を防止する方法にはいくつかの方法がありますが、まずは自分自身をよく知る必要があります。きっとyueyaさんは、ちょうど玉ねぎのように、何枚もの皮で覆われていて、真ん中の自分という芯があることに気づいていません。これから、その皮を一枚一枚剥いでいく作業に入りましょう」


まず医師に尋ねられたのは、私の育ってきた家庭環境についてでした。それを尋ねられた瞬間、私はもうすべてを察していました。「この医師は、私をアダルトチルドレンだと考えている」と。


母は、田舎の生まれ育ちで、農作業に追われる両親から、あまり構ってもらえずに子供時代を過ごしてきた人です。兄弟も多く、田舎のことですから、思ったことを何でも口に出し、罵り合いや陰口なども日常茶飯事という環境で育ちました。今でも母方の親戚が集まると、その場にいない親戚兄弟の悪口で盛り上がるというような一族です。根は決して悪い人たちではないのですが、家族の愛情を信じられない、他人の思いを汲み取れない、そんな人たちでした。


父は、曾祖父母の愛を一身に受け、溺愛されて育ちました。祖父母はその曾祖父母に逆らえず、ただただ曾祖父母たちに従い、どんな理不尽にも耐え忍んできた大正の人です。明治生まれの曾祖母は、私の祖母にそうとう厳しく当たった人のようです。それで私の祖母は、ただ耐えることで若い時代を過ごして来ました。何事も運命なんだから、と静かに生きた人でした。祖母は、また、自分の親に育てられた人ではありません。里子に出され、自分の両親とは違う姓を名乗っていました。だから、なんとなくいつも一人ぼっちな印象のある人で、誰からも愛されるようにいつもニコニコしているような人でした。祖父は博打が好きで、不動産業に手を出し、素っ裸になった人でした。祖母はそんな祖父にも相当苦しめられていました。耐えに耐えて生涯を閉じた人でしたが、私たち兄弟のことをとてもかわいがってくれました。祖母の葬儀では、私は涙が止まらず、切なくて切なくて、納骨日まで骨壷を自分の枕元において置いたくらいです。


私は、母の愛を知りません。母は、私に「世間体が悪いからやめなさい」というような教育ばかりしてきました。小学校一年のとき、校庭で遊んでいて怪我をし入院したクラスメートに作文を書いてお見舞いをしましょうという授業がありました。私は、そのクラスメートとはとても仲良しだったので、「○○くんがもし死んじゃったら、私はとても悲しいです」と書きました。小学校一年生らしい思いやりに満ちたやさしい文章だと思うのですが、母はそれを許しませんでした。「○○くんのお母さんに会ったら、何て言えばいいの? 骨折しただけなのに、死んじゃうなんて、大げさなことを書いて! 反省しなさい」と長時間叱られ続けました。


また、別の作文の時間では、私がとてもまとまりのない長い文章をへたくそな字で書いたら、血相を変えて叱られました。「○香ちゃんの作文を見なさい。こんなにきれいな字で絵も上手に丁寧に書いていて、書きたいことがとてもよくわかる文章でしょ? あんたはなんでこんなに下手くそなの? ○香ちゃんを見習いなさい」と私がボロボロ涙をこぼしても、容赦なく叱り続けました。


もっと古い記憶もあります。幼稚園のはしご型の遊具のてっぺんに私が登れないということを先生から聞いて、父と母のいる目の前で、「登ってみなさい」としごかれました。「クラスで登れないのは、あんた一人なんだから。誰よりも臆病者なのよ。みんなのほうが勇気があるのよ。それでいいの?お母さんはそんな弱い子に育てた覚えはありません」と恐怖に震える私を、無理やり遊具の上まで登らせました。


良い作文を書いて賞を獲ってくると、母はこれ以上ない、というほど喜びました。ほめすぎなんじゃないか、と子供心にも感じるほど、言葉の限りほめちぎるのです。でも、私はそれがうれしくて、また来年の作文でも、夏の読書感想文でも、賞を獲らなきゃ、と強迫観念を抱くようになっていました。


叱る母とほめる母は、まるで別人でした。だから、私は子供の頃から、母の顔色をうかがってばかりいるような子でした。母が機嫌が悪そうだと、お調子者っぷりを発揮し、わざと楽しい笑い話をしたり、ごまをすったりしていました。逆に、悪い成績を持って帰った日には、母が仕事から帰ってくるのが怖くて怖くて、死んでしまいたい、といつも思っていました。子供相手に、こんこんと何時間も叱り続けるのです。忘れられない言葉があります。「クラスの○○ちゃんの悪口をこの間言ってたけど、○○ちゃんは、あんたよりずっと成績がいいのよ。クラスのほとんどの子が、あんたより勉強ができるのに、よく平気で学校に行けるね。お母さん、恥ずかしくて父兄参観でも恥ずかしいわよ」「明日、学校に行ったら、みんなの顔をよく見てみなさい。みんな、あんたより賢い顔してるから」


成績以外でも、いろんなことで母は私を、常に人との比較や自分の世間体を中心にした考え方で私をこっぴどく叱りました。親が仕事から帰って疲れているのに、なぜこんなに部屋が散らかっているの? 親を思いやる気持ちがあんたには少しもない! 勉強もしないでテレビばっかり見ていて、台所の仕事はお母さん一人がやればいいと思ってるの? 少しは言われる前に手伝いなさい。○○さんのとこの娘さんは、○○さんが仕事から帰ると、もう宿題も済ませていて、食事の支度をいっしょにやるんだっていってたわよ。それに比べて…などなど。


そして決定的だった事柄。これは、二つあります。一つは、小学校に上がるとき。「お友達とケンカしても、絶対に自分から謝っちゃいけません」。私はこれによって、小学校時代から中学時代まで、友達らしい友達もできず、クラスで浮いた存在でした。高校に入って、ようやく母の教えが間違いであったことに気づき、態度を改めたとたん、友達ができました。みんな私より成績優秀でクラスの人気者の子達でした。私は、そのとき初めて知ったのです。「私が母の悪影響を受けていたから、友達ができなかったのだ」と。それからの私はいつも母に歯向かうようになりました。東京の大学に行ってしまえば、母から離れられる、そう思い、地元の大学は避けて、わざわざ一人暮らしが必要な東京の大学を受験しました。しかしなかなか志望校に合格できず、受験料や受験の前日の宿泊代などがかさみだした頃、二つ目の決定打を食らいました。「あんたなんか生まなきゃ良かった」。


以来18年間、私はずっと母を遠ざけて暮らしてきました。その18年の間に、2回、母と絶縁状態になったことがあります。結婚したい人がいると打ち明けたとき、猛反対され、ケンカになり、「もう家には二度と帰ってくるな」と言われたことがきっかけでした。結局、和解するまでに3年かかりました。もう1回は、中国に渡航する直前でした。父が思わぬ形で急死し、私はそれを母のせいだと思いました。それと同時に自分が何もできなかったことに無力感を感じ、ひたすら苦しみました。それなのに母はまったくそんなことは意に介さず、これまで以上に私に過度な期待をかけ、思い通りにならないと頭ごなしに叱り付けるということを繰り返すようになったのです。絶縁のきっかけになったのは、ほんの些細なことでした。ジャスミンのつるを這わせるネットを庭に取り付けたいと言った時、私は反対しました。高いところに伸ばすと管理が難しくなるからやめたほうがいい、と意見を言ったのです。しかし母はまったく聞き入れず、自分の描いたとおりにジャスミンを植え、高いネットを張りました。そして、ある日、「ジャスミンの木を剪定したいから、ちょっと手伝って」と母に言われました。「んもう、だから言ったじゃん。人の手を借りないとできないようなことしないほうがいいって」と私が言うと、母はすかさず「あんた、家のことに何も協力しないのね。思いやりのかけらもない!」と言い放ちました。


本当に些細なくだらないことですが、私はその瞬間、「もうこの女とは二度と口をききたくない」と見限ってしまったのです。亡くなった父への思いもあり、少しナーバスになっていたときだけに、自分勝手な母を許せない気持ちを増幅させてしまっていたようにも思います。でも、その思いは今も続いています。


私が中国に出発する日。母は、「中国で頭を冷やしてきなさい」と怒って言いました。どうしても自分の支配下に娘を置いておきたい人なのです。以前、私は、「お母さんの幸せを、私に押し付けないで!」と言ったことがありました。それを母はひどく根に持っていて、「こんなことを言う娘だとは思わなかった。お母さんはすごく傷ついたのに、あんたは平然としてる。冷たい娘だ」と言いました。自分の思い通りにならないと癇癪を起こすのに、子離れできない人なのです。


今も母との関係は、改善されていません。でも、医師に言われた言葉を信じるなら、母に翻弄された私の子供時代をもう一度取り戻し、玉ねぎの真ん中を見つけ出すことができたら、私は母を受け入れられるようになるのではないか、と。どうしたら本当の自分に出会えるのか、やり方がわかりません。医師は、「目をつぶり、深呼吸をして、お母さんに対する恐怖心や怒りを、心の中でどんどん大きくしていってください。大きく大きくそれを膨らめていって、もう駄目だ、というところまで膨らんだら、大きな声で叫んでもいいから、息をすべて吐き出しなさい」。それが今月の宿題だと医師は言いました。


母に対する恐怖心や怒りは、確かに私の心に巣食っています。けれども、それを思い出そうとすると、常に母を弁護するような思考が邪魔をしたり、一般論や常識が邪魔をしたり、時には神様が出てきて、そんな黒い感情を膨らませてはいけない、と自分で制御してしまって、大きく膨らませることができません。これぞ、アダルトチルドレンの典型なのだそうです。


半信半疑でスタートした試みですが、もしかすると本当に、新しい人生への突破口が開けるかもしれません。きっと私は、弱虫で臆病で勉強なんか大嫌いな、普通の女の子だったに違いありません。それが、なぜこんなにも勝気で勇敢で正義感に燃え、勉強を自分に強いている、変なおばさんになってしまったのでしょう。そのうち、きっとわかるような気がします。ちょっと苦しい作業ですが、医師の言葉を信じて、新しい治療をスタートしています。