ひだまりの居場所

精神障害者をはじめ、生活困窮者の心に寄り添うブログです。

「ちょっとした物」という価値観

日本人って、何かごちそうになってしまったときや、ひどくお世話になってしまったとき、必ず「お返し」をしますよね。例えば、「夕べは結構なものを御馳走になってしまってありがとうございました。これ気持ちばかりですが…」と言って、翌日何かを贈るとか、そういう習慣です。


今日、仕事でよく出入りさせていただいている、とある教育機関の日本人社員の方々からご招待を受け、結構なものを御馳走になりました。私の立場から言えば、彼らはお客様で、本来接待すべきは私の方なのですが、「いつもお世話になっていますし、家族同然だと思っていますので、ぜひyueyaさんにも来ていただきたい会食なのです」と説明を受け、とても恐縮しつつもありがたく参上しました。一人を除いて全員女性の集まりで、まさかこの席に手ぶらで行くわけにはいかない、とレストランに赴く前に百貨店をブラブラ…。何か「ちょっとした物」を皆様に一つずつ差し上げようと探したわけです。


ところが、無いのです。その「ちょっとした物」が!


日本には、いくらでもありますね。小袋の口をリボンできゅっと結んだクッキーだとかチョコだとか、かわいいマスコットのついた小さなポーチだとか、やわらかな色合いのタオルハンカチだとか、クセのないワンポイントのついたソックスだとか、まあ、百貨店を5分もぶらつけば、候補が4〜5点挙がります。こういったものは、ほとんど「ちょっとしたギフト用」として売られていて、自分では買わないけれど、ほとんどの女性が何かの折にいただいたことがあるはずです。


でも、中国のギフトの習慣は、とにかく派手で御大層。中身なんか虫眼鏡級に小さなものでも、「リヤカーをご用意しましょうか?」というくらい馬鹿でかいパッケージに包まれていて、要するに過剰包装で中身を良く見せるという寸法なのです。こんなにスゴイものを贈られるあなたは、偉い! という表現でもあるし、逆に、これだけのものを贈ってやったのだから、私のことを尊重しなさいよ! という表現でもあるわけです。つまり贈り物には、心より、ステイタスが重視されるわけです。


とにかく贈る側も贈られる側も、かなりの大きな負担を背負って、贈り物をし、受け取るので、私達日本人にとってはなかなか馴染めない習慣の一つではあります。


私の今日の予算は、20〜30元。日本円にすれば、300円〜500円くらいと言う目安でした。というのは、今日招かれたレストランのコースが200元〜300元くらいの店だったので、1割はお返ししたいという計算でした。


20〜30元というのは、今の中国都市部では非常に微妙な金額です。ちょっと小ジャレたローカル食堂のランチが30元。ローカル居酒屋で飲んで食って割り勘して30元。頭痛薬が一箱25元。中国ローカルメーカーのストッキングが一足30元。割合そこそこの買い物ができる金額なのですが、先述の気の利いたクッキーの詰め合わせなんかを買おうとすると90元(過剰包装)。すてきなビーズ刺繍入りのポーチが50元(高級品)。くせのないワンポイントの入ったソックス50元。くせだらけで「いつ履くんじゃ」というソックスが20元。


要は、ギフトとして成立するものはことごとく高値で、手ごろな値段のものはあくまで実用品なのです。


それで発想を転換し、ドラッグストアに行き、色のきれいなハンドソープ20元を購入し、皆さんに差し上げました。女性だらけの集まりにハンドソープはなかなか受けがよろしかったようで、大喜びでもらってくださいました。


ところが、同じ発想で中国人にハンドソープを贈ると、不可解な顔をなさいます。こういうギフトをするのは、非常識なのです。ちっともステイタスをくすぐらない、気の利かない贈り物というわけです。日本人に対しては、喜んでいただける贈り物ができる人でも、中国人に物を贈るのは、なかなか難しいものです。