ひだまりの居場所

精神障害者をはじめ、生活困窮者の心に寄り添うブログです。

歴史はいかに塗り替えられるか

例えば日本でも古い歴史を紐解くと、史実だと思っていたことが、実際はそうではなかったというケースがたくさんありますね。研究が進むにつれ、さまざまな矛盾点が浮き彫りになり、そこに何らかの仮説が立って、更に研究を進めた結果、これまで私達が信じてきた歴史が実は全く違うものだった、というようなことです。


建礼門院徳子は歴史の波に翻弄された波乱万丈な悲劇のヒロインだと思っていたのだが、実はただの愚妻で死ぬ覚悟も生きる覚悟も守る覚悟もできていなかったノータリンだったとか、我が子を守るために敵方の平清盛に身を売ったとされる美談の主人公常盤御前も単に自主性のない行き当たりばったりな浮気な女だったとか、三十六歌仙の一人猿丸太夫はほとんど歌を詠んでいないとか。いろんな本を読んでいるうちに、なんだかにわかには信じがたいようなエピソードが続々と出てきて、いかに歴史が嘘っぱちかがよく分かります。もちろんタイムマシンでも無い限り、嘘かどうかなぞ確かめようもないのですが、たとえば正史とされる「日本書紀」だって後の世に編まれたものだから、その時点で既に怪しいちゃあ怪しいわけです。天智天皇天武天皇は兄弟じゃなかった、とする説が今や有力になってきているようですよね。私達が歴史の時間に暗記した事柄は、どこまで本当なんだろうと、えらく脱力してしまいます。一番ショックだったのは、万葉集。あれは元々韓国の言葉で書かれた「エロ歌集」だったのではないか、という説。あれらが後の世の人によって勝手に書かれた歌だとするなら、私が大学時代に万葉集の授業でやった解釈は、一体なんだったんだ! という思いです。もしそれが本当なら、大学受験問題にするなよ…ていうか万葉集の解釈に一生を捧げた人だっていっぱいいるんだぞ! ですよね。


……中国なんてもっとスゴイはずだよなぁ、と思うわけです。ところが井沢元彦さんという作家さんの書かれた『歴史不思議物語』という本の中に、以下のような文章がありました。


(略)…権力者というのは、洋の東西を問わず、勝者に都合よく事実を歪曲する可能性がある。そのことに気づいた賢明なる中国民族は、王朝の歴史の編集を次ぎの王朝にゆだねた。(略)…


ほほお。確かに大昔の中国人は賢かったですからね。そういう仕組みを作るくらい朝飯前だったというのは、うなずけることです。でも、現代中国はそうではありません。むしろ何でも都合よく塗り替えるのがお家芸にすらなっています。都合の悪いことは、いつの間にやらフェイドアウトさせつつ、きれいなお話に塗り替えていきます。


大好きな「侵略」という言葉も、実は中国人が言い出した言葉ではなく、あくまで「党」が勝手に言っているに過ぎないということに、私はつい最近まで気づいていませんでした。明代から清代にかけて、多くの列強が中国に侵入し、「侵略」していったという言い方をすると、あたかも中国人には屈辱の歴史のように捉えられがちですが、実はそうではなく、文明開化の足がかりとして、半ば歓迎する形で諸外国を受け入れ、西洋の進んだ法律や制度を学び、工業の発展に役立つ技術を取り入れることに、とても積極的だったわけです。中国人はもともと「中華思想」を持っている民族で、世界の中心の花は中国、世界で一番エライのは私、という価値観を持っていますから、外国人が入ってこようと全くお構いなしだった、というのが実態のようなのです。それを、なぜ「侵略」という言葉に塗り替えていったのかは、井沢元彦さんの言葉を借りるなら、「勝者に都合よく事実を歪曲」した結果なのでしょう。


日中友好という観点から見ても、民間レベルでの交流のほうが、国家レベルの交流よりずっと進んでいて、結構、日本人と中国人は仲良くやっていたりするんです。もちろん思考特性の違いから、さまざまなギャップを感じることはありますが、それを互いに理解しあう方向で盛んに交流しています。ところが国と国の交流だったり、ビジネス(つまり金)が絡んだりすると、途端に上手くいかなくなり、いまだに戦争責任を持ち出してくる中国人を見ると、「あぁ、もぉ!」です。


すごく尻切れトンボな終わり方をしますが、言いたいことは「あぁ、もぉ!」しかありません。以上です。どうもすみませんm(__)m