ひだまりの居場所

精神障害者をはじめ、生活困窮者の心に寄り添うブログです。

ホントは怖い「無学な人々」

昨日のニュースで世界各国に配信された、第11回全国人民代表大会第5回会議の温家宝首相の今年の施政方針政府活動報告で、GDPの目標を8%から7.5%に下方修正するという話題がありました(長ッ!)。


飛ぶ鳥を落とす勢いで経済成長を続ける中国という表の顔と、貧富の格差が明らかに広がっているという裏の顔は、実際に私の生活圏内でも十分感じ取ることができます。私が住んでいるのは、中国北方のとある都市で、市の中心地を少し外れると、そこにはまだ昔ながらの生活を営む農村社会が存在します。昨日のエントリーでも少し触れましたが、都市生活者と農村生活者には、ほんの些細な生活習慣ひとつとっても、一時代タイムスリップしたかのような暮らしのギャップがあるのです。うまく表現できませんが、なんだか江戸時代と1980年代の日本の生活くらいの違いがあるんです。


ところが、物価だけは情け容赦なく上昇を続けています。消費者物価指数は昨年比5.4%と発表されましたが、生活実感としては、もっと増加しているような感覚があります。農村部では、腹立ち紛れに人様の家のビニールハウスに火をつけたり、地元政府を相手にした暴動を起こしたりと、人々のフラストレーションが連日小爆発を繰り返していますが、中国で暮らす私たちにさえ、その事実は報道されていません。ただ、いくら報道を阻止したとしても、実際に財産を焼かれた被害者や自らが暴動に参加した人たちが実際にそこで暮らしていて、本人がそう語るのですから、それは紛れも無い事実なのです。


私自身も、給料が上がらないのに、物価だけが上がっていくため、少し節約をしなければいけないなぁ、と最近思っているほどで、農村部の方がたの生活の困窮は、筆舌に尽くしがたいものを感じています。


中国でいつの頃からか使われ始めた「和諧」という便利な言葉があります。一言で訳してしまえば、「調和が取れている」という意味でしょうか。スローガンが大好きな国ですので、何か一致団結して一事業を成そうとすると、必ずスローガンが立てられ、それらにたびたび登場するのが、この「和諧」という言葉です。


私は中国に来たばかりの頃、この「和諧」という言葉がうまく理解できませんでした。調和が取れている状態というのは、どういう状態を言うのか、全くイメージできなかったのです。しかし、ここ最近の中国の様子を見ていると、この「和諧」がどれほど夢のような世界であるのか、容易に想像ができるようになりました。物質的な豊かさと、人の心の美しさとゆとり。そういうすべてのものが不平等なく整い、どこにも無理な力が加わっていない社会が「和諧」の社会なのだと思います。そう考えると、今の中国は非常にいびつな形にふくらんだ水風船のような状態に思えます。一部の特権階級の人々だけがパラダイスのような暮らしを満喫し、この世の天国とばかりに贅の限りをつくした毎日を過ごしています。一方、その対極にある貧困階級の人々は、わずかばかりの小麦を練って大事に大事に焼き上げ、水を飲んでおなかを満たしている状態なのです。「和諧」という言葉に託した人々の夢は、いつもスローガンによって誤魔化されている気がしてなりません。文字にすることで「達成した気分になる」という最悪の状態です。


この出遅れた大国は、今どこに向かおうとしているのか、私は昨日の全人代開幕の報道を固唾を呑んで見守っていました。世界各国から中国に大いなる期待と課題が寄せられている中で、この「非和諧」な社会をどうやって先導していくつもりなのか。温家宝氏の最後の言葉を一言一言吟味するように聞いていました。そして、彼はその中でもやはり「和諧」という言葉を使っていました。彼の語る「和諧」社会は、GDP目標を0.5%引き下げることで実現するのでしょうか。私には到底無理だと思います。


昨日乗ったタクシーの運転手は、全くの無学な人のようで、私が折りたたみ傘を畳んでいたら、「日本にも傘はありますか?」と聞いてきました。私は最初、彼が何を聞きたいのか理解できませんでした。しかし、彼の質問は、全く何のひねりもなく、ただただストレートに、「日本にも傘というものが存在するのかどうか」を尋ねるものだったのです。中国中央政府が背負っている人々の重さを感じずにはいられませんでした。人口増加の問題、教育(学問)の問題、食糧不足の問題、エネルギー不足の問題、環境保全の問題などなど、私たちが教科書や書物で学べる中国の様々な問題は、こうやって言葉にすれば箇条書きにできる事柄ではありますが、その一つ一つに更に厄介な事情が複雑に絡み合い、それこそが現代中国そのものであるように思います。残念ながら、良い材料が何一つ見当たらないのです。景気が右肩上がりだったときには、それが中国人民にとって一筋の希望の光でした。しかし、それが今、ほころびを見せ始めた途端に、一縷の望みを断ち切られたカンダタのように、暗闇の底に転落してしまうのではないかという不安感を煽っています。もう「和諧」という言葉では誤魔化されない人民が、確実に増えてきているのです。


ホントに怖いのは、ここにいる「無学な人々」です。彼らが、振り上げた拳を下ろす先を見定めたときこそ、この国は大きな変化を迎えるだろうと思います。天安門は学生の起こしたものでしたが、今度は働く人々が動くでしょう。「日本にも傘はあるのか?」と大真面目に質問してくる人々が、何かしらのムーブメントを生み出すきっかけになるような気がしてなりません。