ひだまりの居場所

精神障害者をはじめ、生活困窮者の心に寄り添うブログです。

日本人としての面子


中国人は「面子」という言葉に敏感だ。人の面子をつぶすようなことをする人間は最低な人間であり、自分の面子をつぶされることを極端に嫌う。「面子」とは何かを考えると、人のかなりデリケートな部分であり、おそらく人それぞれ「面子」の立て方は違ってしかるべきだろう。しかし、それらをすべて「面子」という言葉でひっくるめ、それが中国人同士の暗黙の了解として守られているのだから、私たち日本人なんぞには到底立ち入ることのできない聖域のような存在である。


さて、我々日本人にも「面子」というのは存在する。しかしながら、中国人のそれとはかなり異なり、もっと大雑把なもののような気がする。妥協範囲が中国人よりも広い。私が考えるに、それは私たちが、「我慢」ということを躾けられ、それを美徳とする国民だからなのではないか、と思う。例えば、会社で上司に叱られる。多くの社員のいる目の前で、大声で叱られたとしよう。仮に中国でこんなことがあったら、叱られている部下の「面子」は丸つぶれであり、たとえ上司と言えども、部下の「面子」をつぶすようなことはしてはならないのだ。叱るなら、個別に呼び出して、人目のない所で叱るのが普通だ。しかし、日本人は、わざと他の社員に聞こえるように叱ることがある。それは、「キミをみんなの前で叱ることで、他の社員にも注意を促したいから、キミはその犠牲になってくれ」という意図があるわけだ。だから、叱られている本人は、その意図をくんで、「我慢」するのである。恥をさらして、ひたすら我慢なのである。我慢できる人間がエライのだ。「面子」よりも、「我慢」が優先されるのだ。


しかし、今度という今度は、我慢できない。原発事故のことだ。


私たち中国在住の日本人は、中国人の前では、「日本人を代表している」という意識が常につきまとっている。いや、この意識は、中国のみならず、他の外国にいる日本人すべてに言えることかもしれないが、ことに中国は、日本に対する対抗意識や反発意識の強い国だから、ちょっとしたことで、私たちはその矢面に立たされる。


日本のマスメディアは、中国の秘密主義を徹底的に叩く。SARSが流行した時も、感染の実態を隠したとして、相当強く非難していたし、平和活動家や人権保護活動家などが拘束されたりすると、間違いなく報道する。日本はガラス張りの国家であり、言論も芸術も……国家そのものが自由なのだ、と暗に主張している。少なくとも、中国人の目にはそのように映る。


それなのに、今回の原発事故の対応のまずさが、そのイメージをいっぺんに崩した。お前ら日本人は、中国を叩く権利があるのか。日本人だって、隠しているじゃないか。民主主義が聞いてあきれる。いっぱしに先進国ヅラをしておきながら、一国の首相が寝ぼけた発言ばかり繰り返し、日本の「危機管理」や「平和主義」なんて、単なる幻想だったじゃないか。これまで「危機的状況」に陥ったことがなかったから「危機管理」なんて言葉を使えたにすぎない。これまで「平和」だったから、のんきに暮らすことができただけじゃないか。


中国人は、きっとそう思っている。


日本政府のこの体たらく。日本人としての「面子」は無いのか、と声を大にして言いたい。


そして、国民一人ひとりが、もっと厳しくあるべきだ、と心の底から思った。私たちは甘かった。甘やかされて生きてきた。この国を守るのは、私たち自身だという自覚に欠けていた。今からでも遅くない。私たちは、もう一度スタートラインに立つべきなのだ。「我慢」は確かに美しい。でも、我慢してはいけない時だって、たくさんあるんだということを、知るべきなんだ。