ひだまりの居場所

精神障害者をはじめ、生活困窮者の心に寄り添うブログです。

ルーツをさがす冒険

中国の人と知り合い自己紹介をすると、私は決まって「氏名」を褒められる。美しい名前だというのだ。名字も名前のほうも、両方とも美しいと言われると、ついうっかり、「本人も美しいでしょ?」と言いたくなる(いや、結局言っちゃうんだけど)。


とてつもなく冷静に自分の氏名を客観視すると、確かに美しい。意味が美しいのだ。漢字の国の中国人は、私の氏名に使われている漢字の意味が理解できる。由緒ある家の出ではないか、と思う人も多いらしく、
「この名字は、日本人には多いのか?」
「両親や祖父母は、何をしている人なのか?」
と根掘り葉掘り聞いてくる人もいる。


しかし、残念ながら、私は自分の家が、どこから来て、どうしてあそこに家を構えているのか、なぜあの寺に墓があるのか、どうして家紋があれなのか、などなど、自分のルーツというものをほとんど知らないのだ。


それで、こんな異国の地で調べるにはインターネットくらいしか手段がないのだが、ちょっと自分のルーツをたどってみようという気になった。私の地元の研究者がさまざまな著書をネット上で無料公開しているのを見つけ、それを見ていたら、結構な「冒険物語」が隠されているのではないか、というところまで辿り着いた。


どうやら我が家のルーツは、山岳信仰に起源がありそうだ。修験者、つまり山伏で、本州の内陸部の、とある場所が出自なのではないかという仮説が成り立った。「姓」が現在もそのまま地名として残っている。その姓を名乗った人は、お武家さんらしいのだが、その人の素性が、どうにも謎だらけで、山伏だったという見方が、研究者の間では通説になっているようなのだ。時代背景から考えても、どうも動きが不自然で、ある意味、時代の流れに沿わない人目をくらますような動きがある。それらを説明するのに、山伏だったとするのが最も納得のいく見方で、それを裏付ける証拠もたくさん見つかった。「山伏って、法螺貝吹いている人だよね〜」というくらいの知識しかなかった私には、驚きの記述のオンパレードだった。


しかし、これはあくまで私の「姓」にのみ基づく調査で、これに家紋が絡んでくると、とたんに訳が分からない世界に突入していく。家紋だけを辿っていくと、平安中期まで遡ることになり、それを近代まで手繰っていくと、「姓」との唯一の接点が、やはり神仏の信仰だけになる。


こんなものは、おそらく、どんな「姓」を持つ人でも、どんな「家紋」の家であっても、どこかで宗教に絡んでくるものだろうし、この程度の手がかりで、自分のルーツを知った気になってはいけないのだが、まあ、空想は自由なのである。


日本人の9割が、ただの百姓だった、という話もどこかで読んだ。自分祖先が残りの1割の人間だったとは、いくらずうずうしい私でも考えにくい。


しかし、自分がごく平凡な人間なのだ、と分かっていれば分かっているほど、先祖の活躍に期待してしまうわけである。中国人に自己紹介するときに、夢のような冒険物語ができたらいいなぁ、などという不純な思いもあるものだから、いきおい裏づけ調査に思い込みの要素が加わる。


祖先というのは、「姓」だの「家紋」だのにこだわっては語りきれない。母方にも私の祖先はいるわけだし、父母に対し、その親がそれぞれ二人ずつ、四人の祖父母に対して、その親がさらに二人ずつ、という具合に、倍々に広がっているわけで、名字や家紋にこだわることには、何の意味もない。


でも、せっかく美しい名前をもらって生まれたのだから、こだわりたくなるのは、仕方が無いと自分でも思う。しばらく、こだわってみたい。驚くような思わぬ発見にめぐりあえたら、それこそ冒険だ!