ひだまりの居場所

精神障害者をはじめ、生活困窮者の心に寄り添うブログです。

溶け込めないアイデンティティ

中国の日系企業で働いていると、
ときどき頭がヘンになりそうになる。


どういうことかというと、
「自己喪失」状態に陥るのだ。


アイデンティティ・クライシスという言葉を知ったとき、
「なんだか自分のことを言われているような気がする」
と思った。


一般的にはこの言葉、
若者たちが、社会や会社などの組織の中での自分の存在意義や、
自分の能力への不安感などから、
自分を見失い、「自己喪失」していくことをいうらしい。
(正しい解釈は、他のサイトに譲りますが)


私のいる職場は、基本的に日本語で仕事がまかなえる環境だ。
上司は、日本人と中国人両方いるが、
日本独資の形態をとっているから、
最終決定権は、日本の本社が握っている。
常に、日本人が持ち上げられる特殊な中国環境なのだ。


中国にいるのに、日本の主張がまかり通ってしまうから、
まず、自分がどこにいるのかが分からなくなることがある。


何年ここで生活しても、
私は一向に、中国に溶け込めない。
いや、溶け込む必要性を感じているわけではないから、
それは決して悪いことだとは思っていないけれど、
日々の業務や、日常生活のなかで接する人が、
中国人が大多数を占めている割に、
中国人に感化されることが少ない。
むしろ、中国人にげんなりすることのほうが多い。


でも、彼らとは互恵の関係でやっていかねばならない。
それなのに、私は、
どこで押すべきなのか、
どこで引くべきなのか、
という勘所が掴めないままなのだ。


これが、20年前だったら、
もっと私は中国人化していたかもしれない。
アイデンティティの所在がはっきりしていただろう。
今の自分のように、
日本人であることを利用して意見を通そうとしたり、
中国人と真正面からぶつかっていたら、
異分子扱いされて、
耐え難い苦しみを背負っていたはずなのだ。


言葉だってそうだ。
食べるものや生活習慣にしてもそう。
今は、日本と同じような生活をしたければ、
お金さえあれば可能になっている。
でも昔はそうはいかなかった。


それを考えると、
私は何年いても、
この宙ぶらりんな自分をずっと抱えたままのような気がするのだ。


上海は、いまや世界的な大都市になっているが、
それでもそこは日本ではない。


北京は、中国の首都らしく、
政治の中心地としての側面と、
ビジネスの街としての側面を併せ持ち、
発展めざましいが、
日本人は、そのほんの一角に巣食っているような状態だ。


天津・重慶は、
2009年上半期GDPでも目覚しい躍進をしている都市だが、
だからこそ、発展途上の色合いが濃く、
現代日本人は、そのプレッシャーで心が疲弊される。


もっと田舎にいけば、
アイデンティティうんぬんなんぞとは無関係な、
厳しい現実があるのだろうが、
私はそんなところで一人で生きていく自信はない。


答えは、おそらく出ない。
自分がこのスパイラルから抜け出そうとしないかぎり、
永遠に回り続けてしまうのだろう。


日本人駐在員に、うつ病が多発している。
同情する。
私だって、いつそうなるか、
ドキドキしているんだ。